J・リフキン『限界費用ゼロ社会』を読む

きのうは七夕(たなばた)でした。

生憎の雨模様で、くだんの2つの星影は拝めませんでしたが、笹団子にありつけました。

 

星より団子という言葉がないように、七夕に笹飾りをすることはあっても、笹で巻いた団子を食べるというのは寡聞して知りませんでした。

 

ごく一部の季節の風物詩が、全国的な商売のネタになった例としては、恵方巻があります。

 

七夕の笹団子も、あんなおぞましき廃棄物の山を築くようなことにならないのを願うばかりです。

 

ちょっと旧聞に属するのですが、IoT=モノのインターネットとは何か?という問いかけに対して、「こういうものだ」という回答らしきものを初期の頃に発表したのが本書です。原文は2014年、日本語訳は2015年に刊行されています。

 

IoTは一世を風靡した最新バズワードの1つといえます。

バズワードは、それを商売にしているコンサルタント屋さんにとっては、命綱です。

 

「今度はこれだ!」と提示して、「大変だ~大変だ~」「乗り遅れるな!」と恐怖心を煽動するためのツールです。

 

これまで、幾多のバズワードが登場しては、世間を騒がせ、そして静かに消えていったわけでして、「またか」と思ってしまうほうが、「内容を詳しく知りたい」という気持ちよりも先になります。

 

どうせ一過性なら、勉強しても意味がないから、真っ先に飛びつくのはやめておいて、しばらく様子をみていて、なんだかこれは本物っぽいぞと匂ってきたら、やおらその分野で定評を確立しつつある本から読み始めるという作戦もありでしょう。

 

結論から申しますと、この本をそのようなバズワード製造機として捉えるのは間違いです。

 

かなりちゃんとした文明論として書かれていますから、IoTという副題があってもなくても、本書の意義には無関係です。

 

あくまで文明史的な大局観に立って、物事の深層を淡々と解いていくという手法を採っています。

 

世の中の上っ面を撫でて表層だけを小理屈つきで論じたり、新規性を強調してセンセーショナルにぶち上げるような本の対極に位置します。

 

物質主義が貧困を生み、貧富の差を拡大させたという問題意識が本書の底流にあります。西洋にはキリスト教がありながら、本来の教義に反するような私利の追及がなぜ進んだのか?という根本的な疑問に答えていく構成になっています。

 

「ある経済パラダイムを正当化するために、そのパラダイムに見合った壮大な宇宙観の物語を創出するということが昔から行われてきた。」(柴田裕之・訳、90頁)

 

「(功利主義のハーバート・スペンサーは)ダーウィンの自然選択説を大々的に転用し、後に「社会進化論」と呼ばれるものを提唱した。それは、19世紀後期の世界を席巻した資本主義による行き過ぎた行為のうちでも最悪のものを正当化するべく、イデオロギー的動機から生まれ出たものだった。」(同、100頁)

 

この調子で、人間の過剰消費の性癖を厳しく戒めていくので、あれ? IoTの本じゃなかったの? と思いたくなります。

 

「物質主義がこれほどの害をなすのは、私たち人類を駆り立てる一時的動因である共感という本質をそれが奪うからだ。」(同、432頁)というように、どこまで行っても哲学的な論説に終始していて、最新フレームワークの解説もなければ、それの煽りも出てきません。

 

そうではなく、本来望ましい「共感」を具体的に実現する手法として、共有=シェアリングが進展する、というよりも進展すべきだという、すぐれて唱導的な書籍です。

 

将来を見通すには、当然ですが歴史を学ばなくてはなりません。根を張った岩の知を知らずして、浮いたバズワードのみ追い掛け回してもドリフトするだけです。

 

自己判断の自信は、基礎的な勉学からしか生じないのだと、残念ながら悟らせてくれる本だと言えます。

 

長期的な視野による示唆に富んだ本でした。