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テーマは良いのに中身がつまらない原因とは?

 

人様の文章を読んだり、お話を聞いたりしていて、こう思ったことはありませんか?

「すごく興味のあるテーマだったので、楽しみにしていたら、内容はあまり面白くなかった」 

 

ちょうど、昨日、同じ経験をしました。

 

1つは新聞記事です。

日経新聞の夕刊には、いくつか興味深い連載コラムがあります。

それぞれの分野の専門家が、ご自身の専門分野について、わりと大きなスペースを取って定期的に見解を述べるコーナーです。

 

そのうちの1つに、就職活動について、就職コンサルタントの人が書いている連載があります。

単に就職活動にとどまらず、海外企業の採用方式や、諸外国における就職と学歴についての関係性などに言及しています。

 

日本人が陥りやすい俗説への盲信を戒める、という執筆姿勢が通低していて、なかなか小気味よい内容で、毎回楽しみに読んでいます。

 

ところが、ここ数回はAI(人工知能)が人間の仕事を奪うか?という内容が続いています。

あれ? この先生は就職コンサルタントだったよね? AIについても良く知ってるのかな?

というのが最初の心配でした。

 

読み進むうちに、その第一印象(心配)は、確信になっていきました。

 

いま、AIが近い将来、人間を脅かす存在になるのかどうかについては、甲論乙駁の議論が戦わされている状況です。

 

そればかり研究していて、その分野で博士号をとったような専門家の間でも、見通しは分かれています。

 

そうした分野に、就活の先生が大上段から振りかぶって大丈夫なんだろうかと心配して読んでいるのですが、文章にいつも見せてくれる快刀乱麻の切れ味がありません。

 

やはり、専門外というか隣接分野ということで、専門ど真ん中の凄みが感じられません。

 

これって、何だろうと丸1昼夜考えていたのですが、どうやら「現場感」「臨場感」ではないかと思い至りました。

 

いまや、新聞も雑誌も放送もネットメディアも、あらゆる情報が乱れ飛んでいて、まさに玉石混交です。

 

そこから読者や聞き手の心を打つのは、「発信者が自ら体験した」という「その場を知ってるよ」という生々しさではないかと考えました。

 

「人に聞いたら、こう言ってました」ということでは、「あー、そうですか。それって、最近よく聞きますよね~」でオシマイです。

 

慎重な論者になるほど、未確定のことに言及しませんから、どうしても論述が安全運転になります。

安全な文章は、「ありきたり」と紙一重になる危険があります。

 

もう1つ、昨日遭遇した「テーマは面白そうなのに、中身がつまらない」体験は、講演でした。

 

大学教授の先生が、ご自身の専門分野についてご講演をされる会合に出席しました。

テーマも、ひとつひとつのスライドも、大変面白いのです。そして、話術も巧みでした。

 

しかし、途中で退席する人も出て、会場はあまり熱量が上がっているとはいえませんでした。

 

この講演をきいていて、自分も大いに思い当たることがありました。

外資系コンサルタント会社に入ったばかりのころは、上司のパートナーに毎回のように怒られていました。

 

その怒られる内容というのは、発表している内容に「現場感がない」ということでした。

 

本番で顧客にプレゼンテーションする際に、主に訴求する相手は大企業の経営トップです。(ここが日本のコンサルタント会社と根本的に異なる点でした。「でした」という過去形なのは、もう数十年前のことで、現在はどうなっているか当事者でないので知らないからです)

 

20歳代の若造が大企業の経営者を唸らせるには、現場を歩いて足で集めたデータや末端社員の生の声など、「役員室には届かないけれども非常に重要な実態」をえぐり出すしかありません。

 

それなのに、昨日今日に頭で考えたことや、エクセルでちゃっちゃっと計算したことなどで、ベテラン経営者の常識を変えることなど、最初からできるわけはありません。

 

昨日の講演の教授のお話は、結果だけをキレイにまとめて発表されようという構成が災いしたのか、聴衆の胸を打つという域には至りませんでした。

 

私も、学会の先輩から「下手な演繹化はしないほうがいいよ」とアドバイスを受けたことがありました。

 

実例を挙げるだけでは飽き足らず、どうしても「だから、こうです」と言いたくなるのが人情です。

しかし、そこに論理の飛躍があると、聴衆にはすぐにばれていまします。

 

なお、専門家の名誉のために付加しますと、上述の日経新聞の当該記事の最後のほうには、次のような指摘がありました。

 

「欧州では(日本と異なり)残業も休日出勤もない」ということがよく言われるが、その人たちの大多数は、企業内で出世はしないで、一生ヒラ社員で終わる。そういう人生を受け入れているのだ、と。

 

これなどは、我々一般の日本人のように、就職したら定期的に出世階段を上がっていくものだという目の前の現状が、世界的に見ればガラパゴスだった、とんでもない錯覚だったということを思い知らせてくれた一節でした。

 

まさに、乾坤一擲でした。

 

この切れ味があるから読者に受けているのでしょう。

常に切れ味を保つ難しさを痛感しました。