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非寛容社会のままで少子高齢化を乗り切れるのか?

先日、ある先進国に行って参りました。

 

西欧近代の流れをくみ、白人が人口の多数派を占める国で、1人あたりGDPは世界10位台の前半という、経済面でも一流国です(ちなみに日本は26位。いづれも2018年統計値)。

 

昔から諸外国に行たびに感じることなのですが、街で働く人々の立居振舞が先進国でも日本とは大きく異なります。

 

写真は、この国の国策会社として出発した最上級の航空会社の客室乗務員(CA)が、折り返し乗務の合間に乗客用の待合スペースで談笑(井戸端会議)をしているところです。

 

格安航空会社(LCC)では、CAが機内清掃を担う会社もあるようですが、これはフルサービスのキャリア(航空会社)なので、折り返し運行のための機内整備時にはCAは降機して休憩することになります。

 

これが日本であれば、空港には乗務員専用の部屋が用意されていて、利用客などからはまったく隔絶された場所にいるはずですが、写真のCAさんたちは、そこまで行くのが面倒なのか、それとも最初からそのような部屋がないのか、いづれにしてもこういうざっくばらんな感じで、30分以上ゆっくりご歓談でした。

 

1人はスタバ風のラテのような紙コップ入りの飲み物を買って来て飲んでいます。右手の女性は、写真には写りませんでしたが、タブロイド紙を隅から隅まで眺めていました。タブロイド紙とは、社会的文化的な位相は、日本でいえばスポーツ新聞といったような位置づけで、要するに芸能・ゴシップ・エロなどを中心的な売り物とする大衆向けメディアです。もう1人は個人のスマホをずっといじっています。ゲームにでも興じているのでしょうか?

 

ここで言いたいのは、彼らの振舞が「悪い」とか「怪しからん」ということでは、毛頭ありません。

それどころか、言いたいのは、その正反対であります。

「良い光景だな~」ということです。

 

西欧近代の系譜に連なる諸国で働く人々には、「決められた仕事さえしていれば、業務時の立居振舞には、とやかく言われる筋合いはない」とでもいうべき姿があります。

実際、このあと写真のCAたちの乗務する便(国内線)に搭乗しましたが、仕事ぶりはまったく問題なく、行き届いたサービス水準で、快適なフライトでした。

 

ここでいう「立居振舞」には、服装(制服の場合には着用の仕方など)、外見(髪型、髭、アクセサリーなど)、休憩時の態度などが含まれます。

 

この国で目撃したそのほかの事例では、電車(日本でいえばJRに相当する公共鉄道)の運転士や車掌が制服のボタンを全部外して、羽織るだけの格好で乗務していたり、アメリカのメジャーリーグかWWEのプロレス選手のような長髪や長いあごひげの車掌が乗務していたりということが普通にありました。

 

それらは外観ですから、見ればすぐにわかることですが、そのほかに、「職務に忠実」という面もあります。

 

「職務に忠実」とは「Job description を遵守する」ということですから、そのような意識をもって観察しないと、漠然たる物見遊山では見逃してしまうこともあります。

 

「Job description を遵守する」というと、「そんなの当たり前じゃないか」とか「万国共通だろ」などと言われそうですが、そんな単純なものではないのです。

 

少し(というか相当)古い目撃例では、パリの地下鉄(メトロ)で、駅員の眼の前で若者が自動改札を飛び越えて無賃乗車をしたのですが、駅員は驚きもせず、追いかけるどころか自分の持ち場を離れることもありませんでした。

 

これなどは、日本の(一方的な)常識では考えられない事態ですが、西欧近代ではごく普通のことといえます。

 

それは、駅員のJob descriptionに、「犯人を捕獲する」ということが含まれていないと考えられるからです。つまり、そのパリの駅員は職務怠慢どころか、与えられた職務に忠実だったのです。

 

日本は現代にあっても、西欧近代とは別の精神文化に規定されている面が、社会のいたるところにみられます。

 

西欧近代を合理主義と呼ぶことがあるとすれば、それとは別の文化なのだとしたら、日本は非合理主義ということになってしまいます。日本が非合理なのかという議論を始めると、それだけで論点整理に時間がかかりますので深入りしませんが、日本社会には非合理を良しとする精神性が多分に横溢していると思います。

 

鉄道の話になったので、脱線します。

電車の運行が時間通りで正確だ、ということが「日本褒め」の定番になっています。日本で正確な電車が、ほかの先進国では何故実現しないのでしょうか?

 

この要因について、早稲田大学の永井教授(マーケティング専攻)が非常に興味深い論考をしています。

日本では電車が遅れると、客が駅員を取り囲んだりして文句を言います。しかし、合理的な西洋近代国家では、電車が遅れるのは駅員の責任ではないから、客が駅員に詰め寄ることはない。ところが日本では、責任外の同僚に(いわれなき)累が及ぶので、運行側も一生懸命定時運行に努めるようになった、というものです。

 

電車の運行が正確なのは、非合理的な国民性に起因するというユニークな考えですが、言われてみれば正鵠を射ていると思います。

 

「Job description の遵守」という本題に戻ります。

 

西欧合理主義による労働者の発想と行動は、「Job description の遵守」つまり、「明文化された契約の遵守」に凝縮されます。

 

それに対して、日本の企業社会における労働者の発想と行動は、「包括的な期待への報答」といえます。

労働契約が明文化されている会社であっても、個別具体的な職務の1つ1つが細かく、しかも個人別に規定され、双方の合意によって明文化されていることは多くありません。(仮にあっても、それだけをやっていては人事考課が悪くなったりすることが多いので、結局は有名無実といえます。)

 

あくまでも、「これまでやってきたから」という漠然とした「流れ」をベースにした、極めて曖昧な業務の定義になっています。

 

いま、日本の労働者と書きましたが、これは誤解を生じやすいかもしれません。

 

労働者が自主的にそうやって発想と行動していることも多々あるけれども、雇用者がJob description をはるかに超越して、明文規定に書かれていない、あるいはそれを拡大解釈して被用者に強制もしくは過度な期待を当然視しているという実態があります。

 

ここまでは他の論者も指摘していることですが、私が強調したいのは、その次です。

 

大きな問題は、そういう日本の労働者も、ひとたび労働環境を離れ、被用者から一般消費者へと変身するや、さきほどまでの自分の姿でもあった(他企業の)労働者に対し情け容赦なきバッシング主体として爪を露わにすることです。

 

レジ打ちの店員の態度が悪かった

タクシーの運転手が挨拶しなかった

電車の車掌が壁に寄りかかって乗務していた

電車の車掌がスマホをいじっていた

運転士が帽子をかぶっていないかった

救急隊員がペットボトルの水を自販機で買っていた

 

これらはほんの一例ですが、こうした市井の一般人による「通報」は各企業のコールセンターに押し寄せるだけでなく、SNSをはじめとするネット空間に夥しい数が飛び交っています。

毎日毎日のことですから、その数は年間何百万件にのぼるのか、見当もつきません。

 

要するに、小学校低学年か幼稚園児の「告げ口」です。

「あ~! いけないんだー。○○ちゃんが、こんなことしてるー!」という、あれです。

 

実に幼児性の高い発想と行動です。

 

「幼児性が高い」ということは、「大人性が低い」つまり、「成熟度が低い」わけです。

 

では、国民の成熟度とは何でしょうか?

それにはいろんな見解があると思いますが、1つの答として「寛容性」を挙げます。

 

他者の思想信条をはじめとする人格を尊重し、自分と異なる文化的背景、思想信条、それに由来する発想と行動をなす他者を許容することができる度量の程度ではないでしょうか?

 

少子高齢化の問題点が声高に叫ばれていますが、叫ぶほうも気付いていないことがあります。

 

それは、いまの日本社会のように、働く人の「お行儀の良さ」を過度に当然視する風潮では、ただでさえ少なくなっている若い働き手が、ますます働きにくくなるということです。

 

西欧流のJob description を具体的に定め、それに書いていないことについては、寛容になる必要があります。

 

そのJob descriptionは、狭く定義しなければなりません。

 

あれも、これも、と求めると、すべてを満たす若い人材がすぐに枯渇します。

たとえば、電車の運転士は定時・安全運行。これ以外のことには、思い切って目をつぶるのです。

 

接客業でないのですから、挨拶ができるかどうかは不要です。これによって、たとえば吃音に悩む人にも可能性が生れます。

 

今回訪れた国では、路面電車の運転士には接客や案内、料金の収受などは業務として一切課されていませんでした。車両の運転室は乗客とは壁で完全に隔絶されていて、客との接点はそもそも生じない構造になっています。

 

外貌についての過度な規制も取り払う必要があります。

これまでは、接客業ではない職種にも、髭や茶髪を禁止するとか、窮屈な制服制帽を強制するといった規制が行われきましたが、戦後の中学校の校則のような丸坊主強制の如きは時代遅れと悟るべきです。

 

タクシーの運転手は地理知識、安全意識、運転技能という側面で選抜し、最低限の応答を超えた過度な挨拶や愛想の強要などは即座に撤廃すべきです。

いまのままでは、「愛想は良いが、道を知らない」というドライバーばかりになってしまいます。毎度毎度カーナビと睨めっこしているよりも、大体の目的地なら何も見ないで黙って送り届けてくれる方が有難いという乗客は少なくないと思います。

 

さて、以上からおわかりのとおり、これは労働者を雇用する会社側の問題というよりも、お客側、ひいては社会一般の意識を変えないことには進まないといえます。

 

挨拶が不十分だったといってタクシーセンターにクレームが入り、その会社がお咎めを食らうような社会では、「技能に少々問題があっても愛想の良い者」を使うしか方策はなくなります。

 

小学生的告げ口社会が続けば、いつしか「キチンとしているが、仕事はできない」「挨拶はできるが、間違いが多い」という労働者だらけになります。

否、そのような労働者も既に稀少になりますから、結局は消費者がいくらお金を持っていても、お金を使おうと思ってもサービスを提供してくれる労働者がいないという事態になります。

 

労働者に求める要求が厳しすぎて、労働者がいても稀少性が高く賃金が高騰して、一般国民の平均賃金では普通の生活が出来なくなるということになりかねません。

 

30年前に訪れたスイスのジュネーブでは、レストランのウェイトレスは全員中高年、鉄道の運転手やタクシードライバーも中高年(既に女性も多かった)、バスや電車の運賃は日本の3倍という状況でした。

 

日本は少子高齢化の先進国だなどと言う人がいますが、とんでもない間違いです。つい50年前までは(一部戦争による欠けている箇所を除けば) きれいなピラミッド型の人口構成だったのです。つまり、後進国型でした。

 

その頃、西ヨーロッパ諸国では既に少子化が進んでいました。人口ピラミッドは、底辺の広い三角形でなく、釣鐘型でした。

 

日本が騒いでいるのは、その進行速度が西欧の過去をはるかに凌駕しているということであって、少子化の経験値は西欧州諸国には到底かなわないのです。

 

彼らも、若者が労働市場に供給されなくなった時点では、社会的にはいろいろと不満や不適合があったのだと思います。しかし、なにしろ若い働き手がいないのですから、徐々に諦めていっったのでしょう。

 

寛容性の高い社会とは、高潔にして高邁な社会ではなく、人々の内面に諦観が広まった社会なのかもしれません。