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なんでも「全部」と言う人たち

 

 先日、講演を聞いていたら、講演者がたびたび「全部XXです」と言うので、ちょっと気になりました。普通に考えると、「全部」というのは数字でいえば「100%」ということでしょう。

 

 ところが、その講師はいろんな場面で「全部」を連発していました。

 そう簡単に「全部!」と断言されると、「それって、本当に100%なのかな~?」と思ってしまいます。

 

 しかも、その講演の内容は、「XXを科学で解決する」というテーマだったのです。(「XX」には、一般的な庶民感覚では「科学」とはまったく無関係な身近な社会問題が該当しますが、ここではその演者を特定しないために、XXも伏せておきます。)

 要するに、人々の漠然とした常識や思い込みに左右されることなく、データで検証された事実をベースにしましょうという趣旨でした。

 

 それは誠に結構なことでして、「へ~、そうなんだ」と気づかされることも多々あって、面白い講演ではあったのです。

 

 あったのですが、どうも「全部」というワードが繰り返されるのが耳障りでした。いやしくも「科学」とか「データ」とかを強調しているのに、「全部証明されているんです」とか、「そういうことも、全部データで出ています」という言い方でもって、ぐいぐいと進んでいきます。

 

 その講師は若い女性でしたが、オジサンならまだしも、若い女性にもこういうタイプっているんだ~・・・というのが正直な感想でした。

 

 というのも、オジサンで「全部病」の人に、かつて痛い目に遭っているからです。

 

 1人は、中小企業の経営者でした。人生の前半ではそれなりに苦労していたようでしたが、中年期に手がけた事業がヒットして、毎年大きな勢いで成長していました。腕利き営業マンがご縁を頂き、取引させて頂いていました。

 

 ところが、好事魔多しでありまして、彼の事業が頭打ちになってきました。やがて代金の支払いが滞ってきました。好調な時には調子がいいのですが(当たり前だし、そもそも同語反復じゃないか!と思われるかもしれませんが、そういう人たちはまさにそういう形容がピッタリ該当するのです)、ひとたび調子が狂いだすと、とたんに言っていることが訳がわからなくなります。

 

 腕利き営業マンでも言いくるめられて、未払金が雪達磨式に大きくなっていきました。それで、面談となったわけです。

 

 立場でいえば、こちらが借金取りで、先方が借金を返さないという立ち位置になります。

 しかし、先方の着ているものは結構いい背広だし、鞄は、見れば一目でわかる欧州有名ブランドです。

 

 目の前に現金があると、すぐに使ってしまう性格がよく現れていますが、商売をやっている人には宵越しの金は持たない的なタイプが、いまもって少なくないのが実情です。自分のお金ですから、どうやって使おうとご随意にということなのですが、それはあくまでも債権者との約束を守ったうえでの話になります。

 

 で、その社長の話は、こんな感じでした。

 --(当方)お店の営業状態はいかがですか?

 (先方)「順調ですよ」

 --エリアによって、差とかあるのですか?

 「全部大丈夫です」

 --では、お支払いのほうは元に戻りますか?

 「もう、全部あれしてありますから」

 

 「どれ?」と尋ねると、「全部」という答えしか返ってこないのです。問い詰めるのは簡単ですが、問い詰めたからといって、ないはずのキャッシュが出て来るわけでありません。無担保の売掛債権は、滞留前の厳格な管理が不可欠です。

 

 もう1人のオジサンは、もう少しインテリなタイプでしたが、こちらも大雑把なことでは人後に落ちないという感じです。

 

 国立大学の正教授にして、上場企業の創業社長を同時に兼務しているという稀有な人です。

 

 人前に出て話す内容は確かに興味深く、ほかの人がやっていないこと、やろうとしてできなかったことを、独特の推進力でねじ込んでいった様子が活き活きと語られるので、聴衆としては引き込まれるものがあります。

 

 しかし、要所要所に出て来るのは、「それがなんと、ヨーロッパでは全部認められています」とか、「有効性は全部データに出ています」という「全部病」の言葉遣いでした。

 

 商売人ならば大風呂敷というのもハッタリのうちですから、違和感はそれほどないのですが、理工系の大学教授で博士号も取った研究者から、こういう四捨五入的な、「55なら100と言っちゃえ」というイケイケな話を聞くと、どうも信憑性に疑問が湧きます。

 

 案の定といいますか、そのあとつきあってみると、人間的にもそういう大雑把なところが満載でした。

 

 それはそれで「キャラが立ってる」ともいえるわけで、固くて四角四面な先生が多数派を占める理工系学者業界で究極の差別化を意図的にしているとしたら、日本の有名大企業が逆立ちしてもできないことを実践していると大いに賞賛されても良いのかもしれません。

 

 「差別化」とは、「顧客を選別する」ことにほかなりませんから、「八方美人」は厳禁であって、「敵の多さ」を競うようになって初めて差別化の入口に立てるのです。つまり、「あいつには酷い目に遭った」と何人に言わせるかを競うような、ヒールに徹することができなくては、「差別化」などと軽々に標榜してはならないのです。

 

 その意味では、ヒールを演じることで顧客選別姿勢を率先垂範しているその姿は、大学発ベンチャーの創業社長として、誠に相応しいキャラといえるのです。(・・・と、無理矢理納得するようにしました)