前回では、日本の大企業の殆どがイノベーションを起したいと願っているけれども、それが実現できない原因として、社内中枢にはびこる官僚制とそれが経営トップの最後の意思決定に及ぼすメカニズムについて考えました。
日本の大企業においてイノベーションが起こらないもう1つの原因として、企業規模の巨大化があります。
これはいわずもがなであって、ことさら詳しく申し上げるまでもないでしょう。
恐竜は変化に弱いというのは、小さいお子さんでも知っていることです。
当時最新鋭の技術をふんだんに搭載したタイタニック号が、氷山を発見してもすぐに回避できなかったのは、その船体が大きかったからです。仮に小型船であれば、衝突を回避できないほど遅くまで氷山を発見できないという事態には至らずに済んだわけです。
タイタニック号の場合には、もう氷山にぶつかって浸水が始まり、乗務員が乗客に避難を呼びかけているにもかかわらず、「わしらは食事が未だなのだ、早く食事の用意をしてくれ」などとボーイを呼び止める紳士の姿が映画にありました。
巨大な図体では、変化に対応できないどころか、変化に気づくことすら困難であるという事実を、これほどまでに冷徹に例証した構図もないと感心します。私は、巨大組織の怖さを戒めるときに、このシーンをよく引き合いに出しています。
真実には滑稽が伴うことが多いといえます。
ところで、日本企業はなぜイノベーションが必要と考えているのかといえば、それはそれなしでは今後企業の存続がおぼつかないことを察知しているからです。これは妥当な推察だと思います。
そうはいっても、日本の大企業の経営者とミドルは、イノベーションは必要だが自分とは関係のないところでやって欲しいというのが正直なところでしょう。
そのへんの思考回路と、社内各層の本音がいかに重層的に牽制し合って、解きほぐせない状況になっているかということについては、前回で詳しく述べましたので、さきにそちらをご覧いただければ幸いです。
ところで、前回から「イノベーション」という単語を所与のものとして用いてきました。定義を厳格にすべきであるとの立場の方には、文部科学省のホームページをご紹介しておきます。
シュンペーターをはじめとして、古今東西の学者たちの見解をうまくミックスさせながら、基本的なことから発展的な概念までを、1枚にまとめてあります。
このようなものを作らせると、ツボにはまったお役人にはかなわないということがよくわかる構成です。
なお、我国の第二次大戦後の経済復興の旗振り役である通産省の流れを汲む経済産業省は、当然ですがイノベーションに関する主務官庁を自認しているようで、もう何年も前からさまざまな施策を繰り出していますので(もっとも、具体的な成果としてはイノベーションは勿論、「イノベーションらしきもの」まで含めても何1つ生み出せていないことはご承知のとおりですが)、一応参考までにリンクを貼っておきます。
話を本題に戻します。
日本の大企業の経営者もミドルも、イノベーションは必要だけれども、自分とは関係ないところでやって欲しいというのが本音だと申しました。それは、誰しも自分の生活の長期安定を切望しているので、「長期安定」とはどう見ても背反する概念である「イノベーション」に全身全霊を献じて昼夜分かたず邁進するなどということは、概念の定義からして最初からあり得ないことなのです。
そのような人材は初めから恐竜の如き大企業には入社していないでしょうし、万が一にも大企業に存在していたとしても、異端者であり数的にも不利ですし、社内多数派の共感を獲得することはあり得ません。
「それいいね、頑張ってね。応援するよ」くらいの言葉で良ければ、「共感」を得るかもしれませんが、その異端者と一緒になって今後の出世も生活も安定も投げ打ってチームを組むような覚悟のある社員が、しかも臨界量に達するほど生息している可能性は、どう控えめに見積もってもゼロに近いというべきでしょう。
最近、「オープンイノベーション」という言葉がよく出てきます。
大企業の内部においてイノベーションを起こすことはなかなか難しいから、外部のスタートアップとか、大学の研究室とか、アメリカや中国やインドなどの革新的な技術の芽を持っている組織と連携してやったらいいという発想です。
これが日本の大企業で大いに受けているのは、非常によくわかります。
「自分たちとは別の所でやってくれ」という経営者にもミドルにも共通する本音に、ガッツリと合致するからです。
オープンイノベーションに対する賛意を示し、何かあったら全面的に協力しますよ、という一見前向きな姿勢を掲げておけば、自己の生活の長期安定というコア領域への侵入を防ぐことができるのですから。
ということは、このオープンイノベーション歓迎の潮流は、日本の大企業発のイノベーションに何も実益をもたらさないばかりか、かすかにあるかもしれなかった可能性の芽をほぼ全面的に摘み取ってしまう悪魔の呪文となるでしょう。
オープンだろうが、内部発だろうが、イノベーションの芽が市場において意味を持つほどに大きく成長するためには、既存組織の抜本的な作り直しは不可避です。
なぜならば、現行の組織は現行の技術なり原材料なり商品構成なり提供形態なりを前提に形成されているので、これらとは全く異なる、想像もつかない新規の技術・原材料・商品構成・提供形態などがイノベーションの実用化として登場してきた暁には、当然それに合致するような根本的に異なる組織が求められるからです。
往々にしてこれまでに人間社会に生起したイノベーションは、それがイノベーションとして認められる度合が高ければ高いほど、それまで普及していた旧来の技術等々を跡形なきまでに駆逐してしまいます。
既存組織を破壊しないで済むようなイノベーションは、イノベーションとはいえないのです。
鉄道馬車に代って蒸気機関車が登場し、馬に関する建物、組織、人材などはみんな不要になりました。
厩舎、サイロ、馬の世話をする職人、馬を制御して馬車を時刻通りに運行する御者、鞭や鞍のサプライヤーなどもお役御免になったのです。
このような技術革新は大規模な破壊と創造を不可避的に起こすので、自己の業務が長期にわたって変わらずに安定していることを求めている大企業の社員にとっては、自分の近傍では起って欲しくないわけです。
なので、そういうことが社外で立ち上がってくれる仕組であるオープンイノベーションは、ミドル共和政の主権者たちには誠に好都合な取り組みであるといえます。
オープンイノベーションが、日本の大企業発のイノベーションを促進することがないとすれば、あとはどういう手が残されているのでしょうか?
分割民営化しかありません。
何度も同じことを申しますが、日本の大企業は官僚支配に毒されています。
ここでいう官僚とは本物の官公庁の公務員ではなく、私企業に勤務している普通の社員たちが官僚化しているということです。
生産部門の生みだす年貢を取り上げて、それを一方的に浪費することだけで生計を立てているのですから、立派なお役人様です。やっている仕事内容も、新規投資案件のアラ探しと改革の芽の取り潰しですから、これらも前例主義のお役所仕事といえます。
しかし、私が日本の大企業が官庁化している、社員が公務員化していると申す一番の理由は、親方日の丸化しているからです。
日の丸を本当に背負った官公庁だけが親方日の丸化するのではありません。
純粋な民間企業であったとしても、自分のところは潰れない、大丈夫だと安心しきっている構成員が多数派を占めていれば、それは親方日の丸化しているといえます。
ジャパン・ディスプレイ(JDI)という国策企業があります。
日立、東芝、ソニーの液晶パネル事業を経産省主導で切り出して、新設した大企業です。
2002年の設立以来、何度も経営危機に陥り、そのたびに経産省主導で救済措置が講じられ、業績は依然として絶不調のまま、現在に至っています。
そのJDIで、経理担当幹部が5.7億円も横領していたことが昨秋報道されました。
驚くのは、6億円も横領してもばれなかったこと、犯人が犯行後も何年間にもわたって上位職位の肩書で勤務を続けていたこと、発覚したのに1年も公表しなかったことなど、不思議なことだらけです。
これ1つを見ても、大組織、国策会社、寄合所帯という、弱い組織を作るためのあらゆるコツを一挙に集めたような会社で、普通には考えられないことが発生したのです。
諸問題の究極の根本は、この会社内の経営トップから末端まで、全員が会社の資金を「人のカネ」だと思っていたことです。
会社なのだから、自分のカネではないのは当然だろう、と思った人は表層的です。
会社の床にゴミが落ちていた時、何もしないのが他人意識です。当事者意識があれば、その場で自分の手で拾うでしょう。
会社の床は他人の床なのか、自分の床なのかという問題です。
事業会社を経営していたときに、私は若い社員にこういう例え話をしました。
会社をきれいにするとはどういうことか。もし君のアパートに彼女が初めて来るとなったら、隅から隅までピカピカに掃除するだろう? だったら、この会社も自分の勤め先じゃないか、キレイにしようよ。
厳密にいえば論理に飛躍があるのは承知の上です。
勤務先の床は、勤務先の床でしかなくて、それを自分のアパートと同じように見做しなさい、という物言いに対しては、2つの反応があるでしょう。
「なるほど、そういう考え方もできるな」という反応と、「ふざけるな、あんたの会社をなんで社員が自分からキレイにしなきゃいけないんだ」という反応というか、反発もあるでしょう。
優良な企業ほど、前者のように捉える社員の比率が高いということは、いろいろな実態調査で明らかになっています。
床のゴミの話からお金の話にもどりますと、封筒1枚、コピー用紙1枚であっても、まるで自分個人の私物のように大切に扱う姿勢と、「どうせ会社のモノだから」とぞんざいに扱う態度では、それが何千人、何万人という規模になると極めて大きな差となって、組織のありとあらゆる側面に影響を及ぼしてしまいます。
大きい組織では、構成員に特段悪意がなくても、当事者意識が希薄になり易い傾向にあります。
それは、その大きさからくることで、いってみれば自然なことですから、構成員を責めることはできません。
だとすれば、解決策は「小さくする」しかありません。
実は、役人のような官僚化した社員が幅を利かせているからといって、それをいくら本当の意味で民営化しようと躍起になってみても、組織自体が巨大化しているとどうしても他人事になる構成員が多くなるのは避けられないことといえます。
なので、小さくすることが必要なのです。
国鉄の分割民営化の際にも同じような議論がありました。
国鉄がこのように慢性的な赤字体質になってしまったのは、国家が丸抱えで絶対に潰れないという親方日の丸意識が、従業員にも国民にも、利益誘導の道具としてさんざん活用した政治家にもありました。
だから、もう国家が何から何まで面倒を見ることは金輪際しない、という強い決意表明のために、純粋株式会社として民営化されたのです。
それはわかる。民営化するのはわかった。しかし、なぜ分割なのか?
鉄道という交通網は、ネットワークの商売である。ネットワークはつながっているから意味があるのであって、せっかく1つの組織としてまとまっているネットワークを、バラバラ、ズタズタにしてしまっては、乗客に利便性を提供できないではないか。
・・・という疑問が提起されました。
これに対して、分割民営化を推進した慶応大学の加藤寛教授(当時)は、テレビ番組で次のように話していました。
会社というものは、何か重要なことがあると、トップが決めなくてはならないことが多くなる。地域の実情に沿って決めるべきことも、中央で決めることになるから、情報も不足するし時間もかかる。
意思決定の問題だけではない。何か重要な行事があると(たとえ本当に重要とは思えないようなことであっても)、すぐに社長が出て来いということになる。
全国1社にしてしまうと、当然だが社長の目の届かない部分が多くなる。
だから、エリア別に分権的に会社を独立させたほうが民営化の効果が上がるのだ。
加藤さんの説明は、そういうことでしたが、これを若干捕捉しましょうか。
組織が巨大化すると、経営トップを補佐したりする機能もまた肥大化していき、官僚制を排除しようとして民営化するのに、却って官僚機構を再構築することになる、ということです。
組織改革の出発点は、トップによる危機感の表明というのがお決まりのパターンです。
「社員の皆さん、いま当社は何ら問題なく操業しているように見えるかもしれませんが、とんでもない誤解です。これこれこういう危機が、もう目前に迫っているのです。云々カンヌン・・・」
このように社内報などで繰り返し社長が表明しても、「え? そうなの? そりゃ大変だ。自分も認識を改めなくては」などと素直に納得する社員は決して多くはありません。大多数は、スルーするのが通り相場でしょう。
なかなか社員に浸透しないので、毎年年頭の訓示か何かで、繰り返し同じメッセージを発信することになります。
そうすると、社員の反応はこうなります。
「また始まった」「もう聞き飽きたよ」
あくまでも「聞き飽きた」のであって、「理解した」のではありません。
既読スルーです。
それは何故でしょうか?
簡単です。危機が見えないからです。
大変だ、大変だ! と何年も前から社長は叫んでいるが、全然大変な思いをしたことはないし、給料はキチンと振り込まれているし、周りの仲間は誰も辞めていかないし。。。
こんな状況で「危機意識が足りない!」などと怒られても、ポカンとするばかりというものです。
タイタニック号と同じです。
浸水している箇所から遠い乗客には、最新鋭の豪華船が浸水していると何度言われても、事態を飲みこむことは不可能なのです。
だったら、話は簡単というべきで、大型船をやめて小型船にすればいいのです。
氷山が目前に迫ってくることも、船首が壊れて浸水が始まったことも、全部乗客1人1人が自分の目でハッキリと目視できます。
「見える化」というやつです。
見えれば、乗客1人1人の命は他人事ではなくなります。
自分の命は自分で守るほかないということを、やっと気づくことができます。
シーツを持って来て浸水箇所をふさぐとか、水をかき出すとか、救命ボートを用意するとか。
やるべきことはいくらでもあります。指示を待っていては転覆してしまうことは誰の目にも明らかなので、右往左往しながらもみんなが必死になるでしょう。
よく「これはお前の仕事だろ」という言い方をする人がいます。
それは、その発言をしている本人が自分自身でやらなくても、自分の命には何ら関係ないと信じているから出て来る言葉です。
その仕事をしなくても給料は相変わらず貰えるから、仕事を押し付け合っているのです。
大船(おおぶね)の弊害の最たるものです。
大企業は、「成長」の美名のもとに、なまじ規模が大きくなることを競ってきました。
規模が自己目的化していました。
ところが、いま見てきたように、規模が大きいことはメリットではなくてリスクなのです。
現代日本の大企業に巣食う病理の大半は、組織の肥大化によるものといって差し支えないでしょう。
メタボリックシンドロームは、なにも人体だけの話ではありません。
最近になって、証券市場からはコングロマリット・ディスカウントという言葉が聞かれるようになりました。あれも、これもと同じ企業の中に各種の事業を抱え込んで、何でもあります総合デパートという看板を誇らしげに掲げていたのはとっくに時代遅れになり、それらの各事業の価値を個別に計算して単純合計した価額よりも、巨大企業1社の株式市場における時価総額の方が割安になっているという現象です。
総合化は良いことではなく、経済的にメリットはないし、デメリットのほうが格段に上回っているのです。
だから、各事業ごとにすべて細分化すべきです。法人格ごと別々にしてしまうのです。
最初は子会社として出発しても、できるだけ早期に株式を放出して、資本関係を遮断すべきです。
そうしないと、親方日の丸体質にはメスは決して入りません。
すべての構成員が、「この舟は小さいから、自分が全力を出して漕がないと波に飲まれてしまう」と思うようにしなければなりません。
「わしゃ知らんよ」という社員が多くなると、再度官僚化の始まりです。
別の事業でありながら、同じ組織体の中に置いておいた方が良い事業などという考え方は、私は神話だと思っています。
いまどきの言葉でいえば、都市伝説ですか。
よくシナジーという用語を多用する人がいます。
私の恩師である故・土屋守章先生が日本の経営学界に輸入した概念なので、これを否定するのは気が引けるのですが、シナジーという用語を持ち出す場面ではないケースで使いたがる人が多いのは困ったものです。
特に最近ではM&Aをとにかく推進したい仲介業界の人々が、M&Aをすべき理由として、すぐにシナジー効果があるからということを、定義も検証もせずに安易に用いているので要注意です。
組織が大きいとデメリットもリスクも巨大化していくから、会社を分割しましょうということになったとしても、当然抵抗勢力が出てきます。
いやいや、一見別々に見える事業でも、シナジー効果があるのだ。だから当社が直営で両事業を引き続き運営すべきである、と言い出す人が社内各所で大発生することは容易に想像がつきます。
いままでに延々と指摘したように、大組織にはさまざまな不都合があり、リスクが満載です。そうしたデメリットを補って余りあるほどのシナジーとは一体どのようなものなのでしょうか?
それが独立した別々の企業同士の取引関係や、業務提携などによっては実現できないことなのでしょうか?
これはノーベル経済学賞を受賞したO・E・ウィリアムソンの提唱した「市場か企業組織か」という永遠の問いなのですが、ウィリアムソンはどちらかというと事業環境を静的に捉えていて、諸機能を企業内部に抱え込むことにより生じる内部取引コストについての言及はあっても、企業組織自体がイノベーションを阻害する存在になるということまでは踏み込んでいないように見えます。
JRに分割された7社をみても、指定席予約システムの共通化や通し切符の発行など、業務上必要な局面では大いに協働していますが、先に見た加藤寛さんの分割理念に沿って完全に独立した組織体として活動していることは明らかです。
近年経営難に陥っているJR北海道に対して、他のJR6社が支援や救済については、検討すら一切あり得ないという姿勢を貫いていることをみてもわかります。
各事業単位が小さくスリムで筋肉質な体形に生まれ変わって独立して事業を展開し、自社がメリットを感じる局面においてのみ業務提携でも協業化でも行なえばよいことであって、「その可能性もあるかもしれないから」などという茫漠たる理由というか、理由以前の「希望的な思い入れ」程度のことで、巨大組織を肯定できる状況ではなくなっているのです。
日本の大企業が、もしイノベーティブでありたいと本当に切望しているのであれば、分割民営化は避けて通れない道だと思います。