話をするときには起承転結に注意して、順を追って話すようにしましょう--などといまだに書いてあるのを見つけちゃうとびっくりします。
聴衆というのは暇ではありませんから、つまらない話につきあってはくれません。
このたびJOCの会長を辞任した森さんですが、報じられるところでは、会合のたびに恒例となっていた「〆の挨拶」は毎回30分以上延々と続いたそうです。
こんなことを一般人がしたら、会場には誰もいなくなってしまいます。
一昔前、まだ結婚披露宴があちこちで行われていた昭和のころのことです。新郎新婦の上司とか友人知人などが次々に指名されて祝辞という体裁で下手なスピーチを長々と喋るのを黙って聞き続けるという、禅宗の修行まがいの行事がありました。
既に司会者のほうからどのような人物であると紹介されているのに、「え~、わたくしはァ、新郎とは同じ職場で働いております、XXと申します」などと始まります。
その人がXXという氏名であるかどうかは聴衆にとってはどうでもいいことですし、なんで指名を受けたかは既に告知されているのに繰り返している時点で、時間を浪費しているだけでなく、これからこの人が話す内容が既に面白くないことを高らかに冒頭で宣言しているに等しいわけです。
そういう生真面目な人に限って起承転結を実直に踏襲してくれますので、ないほうがよかった自己紹介の後に屋上屋を重ねるがごとく、これまでの新郎(または新婦)との交流を振り返り、その間にどのようなお互いの成長などあって、今回の慶事に至り、末永くお幸せにみたいなありきたりの結語で締めるという、最初から最後まで山もなければ谷もない、これといった景色も見えないまったくもって平原の一本道をとぼとぼと緩慢に歩み続けるのを神妙に拝聴するのでした。
これに懲りた人が多かったからということなのか、最近は「話は結論から」というご指導が主流になりつつあります。
短いのは大歓迎ですから大変結構なことです。
もっとも、結論から話すというのは、聴き手には単純明快で分かりやすいのですが、それだと単刀直入に過ぎるきらいもあります。
せっかくご指名を受けて壇上から(このご時世ですから、お雛様ならぬ身では物理的な「壇」の上から話すことはないのですが)話をする以上、聴衆には少々の驚きとか意外性を感じさせたいと、下心がもたげてくるのが話者の性(さが)というものです。
そこにさらに、諧謔とかウィットとか少々審美的といいますか耽美的といいますか、なにかしら構成の妙みたいな様式主義まで追いたくなってくるものであります。
あー、そうなんですねー、そう考えると同情する余地もあるかもですね~。
森さんも人前で演説することでご飯を食べてきたご商売ですから、そういう聴衆を飽きさせないようにサービス精神が旺盛だったのでしょうねえ。
技術論で申しますと、前置きが長いと、本題に入ってからどんなに良いことを言っても、既に聴衆の耳は聞き耳を立ててはおらず、ガラガラと雨戸を閉じてしまった状態になっているので、もう聞いてはくれないのです。良いこと、面白いことも、受けなくなります。
だから、よくプレゼンは最初の3分で決まるとか、最初の3枚のスライドが勝負だとか言われているのは、商売上の効果という金銭的な損得勘定に端を発したユダヤ商法的なノウハウなので、これは実利的にはかなり的中するといえます。
ところで、コロナ禍で舞台芸術がたいそうお買い得になっています。
席の配置が市松模様のように間隔を開けているので、ゆったりと観劇できるうえに、お値段は同じだし、もとより芸術の中身に手抜きがあろうはずのないプロ中のプロのパフォーマンスですから、少ない観客では大そうもったいないし、この機会を逃すのはもっともったいないのです。
昨年末にも国立劇場の歌舞伎をみて、またまた感激しました。(3か月連続でお邪魔しました)
番組は世話物の名作・三人吉三巴白浪(さんにんきちざ ともえのしらなみ)で、主役のお嬢吉三(おじょうきちざ)には重要無形文化財にして芸術院賞受賞の中村時蔵丈がご登場。
席は、1階8列38番という、ど真ん中の特等席でした。堂々の「とちり席」であります。
人間国宝の公演を「とちり席」で拝見できるなんて、コロナでなければ到底無理なことでした。
ちなみに、「とちり」とは「いろは」順の席の列番号で、最前列から7・8・9列目の席で、好事家には垂涎の的と言われております。
普段は、ベテラン常連客や芸事のお師匠さんたちで埋まっていて、自分のような素人一見客の出入りできるような場所ではないのですが、大変貴重な機会でした。
この演目の最大の見せ場は、歌舞伎の演目数あれどその星の数ほどのセリフの中でも、名セリフ中の名セリフと音に聞こえし「月は朧に白魚の・・・」という七五調の長い独白です。
名セリフだ名セリフだ、見所だ聞き所だとチラシにも当日のプログラム(写真)にも、またネット上の観劇記や入門解説サイトなどにももれなく書いてあるので、観客はこの日一番の期待をして固唾を吞んで観ているのです。
すると、なんと第一幕が開いてしばらく舞台が進行すると、何の前触れもなく時蔵丈がかの名セリフを語り始めました。
いや~名調子、芸術院賞の至芸とはこれかと感銘を受ける間もなく、ふと、モーツァルト「魔笛」の夜の女王のアリアを髣髴としました。
コロラチュラのアリアとしては、世界オペラ史上屈指の名曲にして屈指の難曲です。
ソプラノの声楽家としては、一度は歌いたいがおそらく一生涯自分に役が回ってくることはないだろうけれど、万が一配役されたら本番前は心臓が飛び出そうになって逃げてしまいたいと言われるらしいほどの曲です。
魔笛は自分も好きで、若い頃から聞き込んでいますから、次にどのように音が進むのかもわかりきっているのですけれど、それでも「え!もうこのアリアか!」と驚くのです。
毎度毎度同じ個所で驚くというのも構成の妙味というほかなく、存分に計算し尽された全体設計としか申せない絶妙さに、毎回感嘆のうめきを上げるのです。
あの有名な超絶技巧のアリアが、休憩時間含めれば四時間近くかかる大作の前半のほうで、もうやっちゃうの!?という突拍子感覚です。
お嬢吉三の「月は朧に白魚の」のセリフと、夜の女王の「復讐の炎」のアリア。
洋の東西を問わず観客を魅了してきた名演目には、「見どころは早目に出す」という共通点があります。
実は、芝居だけではありません。
本日冒頭に掲げた写真は、言わずと知れたマイケル・ポーター大先生の『競争の戦略』の背表紙であります。
これを購入したのは、まだ日本語訳が出版される前で、原書しかなかった時代です。
奥付ならぬ前付を見ると、なんとなんと初版本でした。(この写真には、1980としか書いていません)
ここで申し上げたいのは、例の有名な5フォースモデルの図が出て来る場所です。
なんと、第1章の4ページです。
左の写真をご覧いただければ、あの世界中の経営戦略論を書き換えてしまった伝説の図の左上に、「4」の数字が見えます。
巻末の索引を入れて全巻で396頁の大作の中で、経営学史上に残る、おそらくノーベル経済学賞もありうる(組織論のハーバート・サイモンや、垂直統合理論のオリバー・ウィリアムソンが受賞しているので、経営学でもポーターのように出自が企業経済学者なら可能性はありと勝手に考えています)理論体系の白眉中の白眉のモデルが、なんと4ページ目に既に出てきているのです。
モーツアルト(魔笛、1791年)、河竹黙阿弥(三人吉三巴白浪、1860年)の昔からの、「見どころは先に」を踏襲しているといえましょう。
昔からといえば、昭和の時代には結婚披露宴で、古老が能の「高砂」を披露することがありました。
この名曲「高砂」は、「魔笛」からさらに400年近く遡ります。
あの有名な一節「高砂や、この浦舟に帆を挙げて・・・」も、全編2時間近い大曲の開始から40分ほどで、ワキつまり脇役によってさっさと歌われてしまって、虚を突かれます。
世阿弥が自著『風姿花伝』で語っている内容は、常に観客の受けを第一義にしているところを見ると、この開始早々に名曲を配置したのは偶然ではなかったと思います。
歴史に残る名演目を名うての名役者が演じても「結論は先に」ということなのですから、我々素人がさっき考えたような稚拙な内容を喋るのに「結論は後に」持って行ったら、その頃にはお客さんは誰もいなくなっているのも当然でしょう。