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白人は1人残らずレイシストであると断定した問題作

 

書評で採り上げられた本を買うのは、視野狭窄を防止する有力な手段になります。

 

自分の読みたいと思う本ばかり読んでいると、自然と世界が狭くなるだけでなく、喋ったり書いたりすることも(ただでさえ薄いのに)さらに薄っぺらくなっていきます。

 

そんなことで、もし新聞書評で発見しなかったら、ほぼ100%手に取らなかったであろう本を買いました。

 

著者は、64歳になるアメリカ人女性で、人種差別問題の研究者です。れっきとした白人であるところが最大の注目点です。

白人による、白人に対する、白人優位主義思考の告発です。

 

ちなみに、表紙の顔写真は著者とは無関係で、原著は文字だけで構成されたシンプルな表紙だったのに、日本語翻訳版を出版した明石書店による独自の装丁です。

書店で目立つのでしょうけれど、内容の深刻さ、重大さを考えると、ちょっとそぐわない違和感があります。しかし、それはまったく些末なことです。

 

著者の講演や著作は、鋭い舌鋒でリベラルな白人たちの罪状を糾弾するので、「自分は絶対に人種差別をしていない」と自信満々なリベラル系の白人たちから、囂々たる非難を浴びているそうです。

 

その罪状とは、レイシズムであることです。

この本を読んでいると、著者のいう「レイシズム」というのは、「人種差別」とは定義が違うようです。

 

著者の定義を厳密に再掲するのではなく、読んだ者がそういうことなんだなと勝手に理解した前提で申しますと、差別とは、各種の具体的な行為であって、「する」とか「しない」という「アクション」として表出します。

 

そういう世界では、「どのようなアクションが差別に該当するのか?」という議論になります。そうすると、「そういう行為は自分はかつて1度もやったことがない」という人が現れます。

 

で、その自己宣言が周囲に認められると、その人は晴れて「人種差別をしない人」つまり、「人種差別主義者ではない」というお墨付きを得るのです。

 

アメリカに多数いるリベラルな白人たちは、自分たちは必ずこの範疇に入ると確信しています。

「え? 人種差別だって? トランプ支持者と一緒にしないでくれよ」という大迷惑そうな反応になるのが典型的です。

 

ところが、著者は許してくれません。

 

白人以外の人たちは、アメリカ社会では常に自己の人種について意識させられて生活しているのに対して、「白人は自分を人種と見なさない」と断じます。

 

この圧倒的なデフォルト性に根ざした、社会システム全てにおけるデフォルト優位の仕組みこそが、白人のレイシズムの源泉となっています。

 

著者によれば、人種偏見や差別的待遇とレイシズムは根本的に異なるのです。

つまり、人種偏見や差別的な扱いを「一切しない」人も、レイシズムから逃れることはできないのです。

 

そのうえ、レイシズムとは白人が加害者になることであり、その逆はレイシズムではない、と著者が定義しているらしいのも強烈です。

 

こうした「白人原罪論」(白人全員がレイシストである)には、リベラル派の白人アメリカ人が当然怒るわけです。それで、アメリカのリベラル派を二分するほどの激論になっているみたいです。

 

いろいろな側面から非常に示唆に富む本です。

 

この「白人」を「日本人」に置き換え、場所設定をアメリカから日本に移すと、こんどは我々日本人の内面に潜むレイシズムが炙り出しにされます。

 

よくあるのは在日韓国・朝鮮人に対する潜在的差別意識ということになるのでしょうが、それは他の人も指摘しているので、ここでは東南アジア、南アジア諸国に対する潜在的差別意識、レイシズムについて考えます。

 

コロナ前、インバウンドが脚光を浴びていました。

お客さんとして迎える場合、「白人は歓迎するが、アジア人はいまいち」という潜在意識が観光業界には厳然とあります。

 

アメリカのリベラル派と同様に、そのような本心は決して公言することはないし、当事者たちも真っ向から否定するという構図も、『ホワイト・フラジリティ』の指摘と軌を一にしています。

 

しかし、実際の接客現場で起こっていることは、明らかな差別待遇です。

 

黒船襲来でびっくりさせられたのも、文明開化のお雇い外国人で教えを乞うたのも、全員白人だったこともあるのでしょう。

 

白人には頭が上がらない日本人が、アジア人には居丈高になるのも、ほとんど日本人の原罪というレベルに達しています。

 

スラブ系、東欧系、ロシア系の出自で、英語などカタコトしか喋れない貧民たちが、日本人の白人崇拝傾向を逆手にとって、日本の高級宝飾店で客を装って強盗に及ぶ例が後を絶たないのはご承知のとおりです。

 

名のある高級ホテルにおいても、白人にはペコペコするフロント係が、東南アジアの富豪にはぞんざいな態度を示すといって、アジア富豪のアテンドを専門にしている旅行会社の経営者は憤慨していました。

 

さてさて、そういうアナロジーも、レイシズムの議論の枠内としては、言ってみれば想定の範囲内でしょう。

 

 

ここで全然別の観点から申します。

 

本書でいう「白人」を、日本における「大企業系の正規社員ならびに公務員」と置き換えます。

そうすると、それ以外のすべての人たちが、「非白人」になります。

 

「非正規従業員」については、社会的な議論が湧き上がっていますので、ある程度は問題意識も上昇しています。

しかし、これは人種と同様で、「非正規の人々を差別してはならない」という「規範」が唱えられているだけの状態で、実態は差別行為に満ちているのはご存知のとおりです。

 

問題は非正規だけではありません。

「フリーランス」などの個人事業主もそうですし、もっと人数的に多い集団として「中小企業経営者」があります。

 

「大企業の経営者」は「経営者」といっても「サラリーパーソン」ですから、分類学上は「白人」つまり「正規社員」の範疇となります。

 

オーナー企業の経営者が蒙っている数々の社会的な差別的待遇には、住宅ローンやクレジットカードの与信、賃貸住宅の入居審査など、挙げ始めたらキリがないほどあります。

 

それらは、資産や所得の多寡で審査する以前に、「職業」欄に「会社員」「公務員」以外を正直に記載してしまったために生じる門前払いである点でも、アメリカの非白人の位置づけとまったく同じです。

 

デフォルト設定の問題です。

「アメリカ社会=白人」。「日本社会=会社員」。

こういう構図です。

 

会社員の人はこの本を買って、「白人」という箇所を「会社員」と置換して読み進めてみてください。

そうすると、如何に無意識の意識で、「会社員デフォルト設定」が日本社会に蔓延しているかが、理解できるかもしれません。

 

理解できる「かもしれません」という留保をつけたのは、理解できない人も多いだろうと思うからです。

 

「大企業の正規社員や公務員」にとっては、自身の身に降りかかった経験がないために、日本社会における「職業レイシズム」の存在自体に気づくことはなく、あまつさえ加担側にいることなど到底理解できないのです。

 

そのことも、本書で再三描写されているように、リベラルを自認している白人ほど、潜在意識下に「白人なら誰しもレイシズムから逃れられない」という指摘を受け容れることはできないのと同様です。

 

いま我国で問題になっている中小企業のいわゆる「後継者難」は、まさに日本社会にはびこる職業レイシズムに端を発しています。

 

後継者難ばかりでなく、「事業継承離婚」(サラリーマンの妻として結婚したのだから、実家の商売を継ぐなら約束が違うという理屈による離婚)などの悲劇の土壌になっています。

 

日本全土の土壌改良は簡単ではありませんが、本書を読むと、アメリカ国内の白人のほとんどを敵に回して孤軍奮闘している著者の姿に、妙に勇気づけられました。